コトノハナ

言葉/コロケーションを無雑作に蒐集するブログ。

精神一到何事か成らざらん

精神一到何事不成』

やると心に誓って物事に当たれば、どんなことでも出来ないことはない。精神力があれば、道は開けてくるという教え。

出典は『朱子語類』これは朱子学の祖、朱熹の発言を弟子がしたためたもの。

まず「意識ありき」という発想。「見方が変われば世界も変わる」という自己啓発的な発想はやや教条的すぎて、あんまり好きじゃないことばのうちの一つである。
いつかこの言葉のありがたみが分かる時が果たして来るのだろうか。

楓の語源は「蛙手(かえるで)」らしい。
葉っぱの形が、蛙の手に似ているから、だとか。
これを聞いた前と後ででは、「楓」って名前の女の子の見方が変わりますね。

note1)
そういば、特定の植物の葉がなぜ色を変えるのかするのかは、現代でもよくわかっていないらしい。

note2)
楓のように真っ赤に葉っぱが染まることを「紅葉」という。でもイチョウのように葉っぱを黄色に変えることはなんという?
「黄葉(おうよう)」というのだそうな。なんかそのまんますぎて、言われてみればその通りだけれど、「紅葉」と比べて使用語彙としてあまりにも一般的でないのはどうしてだろう。

note3)「紅葉」と書いて「もみじ」と読む理由は「紅絹(もみ)」という紅葉が綺麗な植物に由来している

記憶がぼたぼたと耳から漏れ出ていく

杉井光神様のメモ帳(9)」p,154より引用

確かに脳みその内容物が漏れていくとしたら耳から、としか考えられないな、と

不撓不屈

撓は「たゆむ」、屈は「折り曲がる」という意味。つまり不撓不屈とは、曲がらず弛まず、屈強であることを示す。

「鬱屈」「窮屈」「屈折」
それぞれを貫くのは、曲がっているということ。まっすぐに伸びていないということである。
一方で「愚直」という言葉もある。僕としては、まっすぐに伸びるだけがすべてじゃないし、ひん曲がった卑屈や鬱屈はコンパクトで収まりが良さそうだとも思うのだけど、こじつけに過ぎるかしらん。

リーズニング

Reasonの-ing形。「理由付け」的なニュアンス。
「じゃあ『理由付け』でいいじゃねーか。無駄にカタカナ使ってインテリきどりやがって」って思わなくもないけど、微妙にニュアンスが違う。
リーズニングは日本語でいう「理由付け」と「推理」の狭間にある感じの言葉である。「推理」と呼ぶには少々こじつけ感があるが「こじつけ」というほど、なんの根拠もない、というわけではない。

Reasonというのは「論理的に考える」「推理する」という動詞にもなる。ここにリーズニングが「理由付け」ではない「リーズニング」があると思う。
論理的に考えて、推理する。それがリーズニングである。その結果として出力された推理はもしかしたら真実ではないかもしれない。論理的に真であるということと、事実としてそうである、ということは同値ではない。けれども、論理的であるということは、誰にとっても理解可能であるということだ。

リーズニングというのは、コナンの推理みたいなものである。
実際にコナンは殺人現場を見たわけじゃない。
アニメでは必ず犯人の自白によって裏がとれているけれども、犯人が自白しなかったらどうなるだろう。「そんな無茶な話があるか」と犯人と目された人物が突っぱね続けたら、コナンの推理は「たった一つの真実」という位置づけを失ってしまうだろう。ちょうど、コナンがおっちゃんの推理を「へっぽこ推理」として退けるように、いつコナンの推理が「へっぽこ推理」として否定されるかも分からない。その可能性はおっちゃんの推理よりも低いかもしれないが、ゼロではない。
い。けれども、コナンの推理を我々読者はスタンディングオベーションで迎える。読者はコナンの推理に納得したわけである。

リーズニングというのは、誰かを納得させられる理由付けのことである。理由付けにしても、こじつけにしても、そのニュアンスは伝わってこない。

三千世界

仏教の宇宙観の一つ。一人(?)の仏のありがたみが伝わる範囲のこと。
三千世界は「1仏国土」とも呼ばれる。

わざわざ「1仏」としているからには、釈迦は一人の仏さまに過ぎず、三千世界を超えた先には別の仏がいることを示している。
考えてみれば仏教は「お仏様を目指してみんなで修行しよう」という宗教(=出家集団:サンガ)なので、お釈迦さまは「one of them」に過ぎないのは当然か。
それだと次は「なぜ、お釈迦様が依然として仏教の中心に居るのか」が問題になるが、この問いについてはまたいつか。